玄奘三蔵は皇帝の出国許可が取れなかったので、今でいう密出国をして インドへと旅立ちました。天山山脈を越え、中央アジアを経て北インドに入り、 中インドのお寺で経典を学び、更にインド各地を巡って経典を勉強しました。 645年、43歳の時、再び天山山脈を越えて唐の長安に帰りました。 27歳からなんと16年もの歳月を旅と経典の研究で過ごしたのです。 そして62歳で生涯を閉じるまでインドから持ち帰った山ほどの経典の翻訳に 心血を注いだのです。 私は当初たった一人で旅したのかと不思議に思っていましたが、途中の 高昌国で手厚いもてなしを受け、高昌国の王様が沢山の食料と従者を 大勢つけてくれたそうです。 しかしインドに入る以前にその従者の大半は厳しい旅路の途中で 亡くなりました。高昌国は大変仏教に熱心な異民族の国家で、今の 新疆ウイグル自治区にありました。 私は1978年秋にウルムチまで旅する機会を得て、高昌古城という遺跡を 見学しました。土壁の仏教寺院の崩れた址が、砂漠のど真ん中の雲ひとつない 藍色の空の下でなんともドライな無常さを剥き出しにして広がっていました。 日本の「荒城の月」に歌われているような「もののあわれさ」といったものは 微塵も感じられませんでした。 玄奘三蔵が長安に帰る途中お礼を述べようと立ち寄ろうと思った時には 高昌国はすでに他国に滅ばされていたのです。 完 梔子花(zhizihua、チーヅホア) 記 |