祇園祭で鉾の上からちまきをまくという習わしを聞いて端午の節句に ちまきを食べるという習慣と似ているなと思いました。 ちまきをまくことに、はるか遠い昔から慰霊、鎮魂の気持ちをこめているのでしょう。 ちまきの始まりは、屈原が大きな石を抱いて洞庭湖べき羅(ら)に身投げした後、 楚の国の人々が屈原の無念の思いを慰めるためにちまきを湖にまいたこと からきていると言われています。 ※べき羅のべきは、さんずいに日といいう字を書きます。 洞庭湖のほとりの地名 ※洞庭湖は、今の湖北省、湖南省のあたりです。 洞庭湖を挟んで、北を湖北、南を湖南といいます 楚の国王の侍従だった屈原の生きた時代は紀元前の4世紀ころ、記録によれば 約紀元前340年〜約紀元前277年と言われています。 計算してみると身投げした時は63歳です。 古代楚の国は長江流域の緑茂り、橘等の木や花が生い茂る緑豊かな繁栄した 国でしたが、屈原の頃の楚の国は秦(始皇帝の国)の陰謀術策によって政治力が 衰退して行く時期でした。 詩文に秀でた屈原は若い時から楚の国王の侍従となり、内政に外交にと 国王の信が厚かったのですが、私利私欲を追い求める同僚たちに嫉妬され、 また彼の純粋潔白な性格が疎まれて、政治の陰謀の罠にはめられてしまいました。 悪臣の讒言(ざんげん)に惑わされた楚の国王(懐王)は屈原を追放します。 その後懐王は秦国に囚われてそこで客死します。 屈原が思いつめて湖のほとりを彷徨う様を横山大観が描いています。 屈原の詩は楚辞と言う詩集にまとめられ、今も人々に愛されています。 湖南省出身の毛沢東は屈原の詩を殊のほか愛したそうです。 梔子花(zhizihua、チーヅホア) 記 |